19の春について調べてみました。
以前のブログの記事より、ちょっと内容は増えています。
「十九の春」は、もとを辿っていくと明治の、
壮士演歌師・添田唖蝉坊(1872~1944)の
「ラッパ節」(明治末から大正にかけて流行った)
のようです。
全国的に流布したこの歌は、九州の炭坑を経由
して与論に伝わり、「与論ラッパ節」「与論小唄」
となりました。これが沖縄本島の遊廓に伝わり、
「尾類小小唄」となって、さかんに唄われました。
その後、1972年に本竹祐助・津波洋子のお二方が、
「十九の春」というタイトルをつけ大ヒットさせ
ました。
歌詞は細部のバリエーションはいろいろ
ありますが、およそ以下のようです。
十 九 の 春
沖縄俗謡歌 本竹祐助 補作詞
1 私があなたに 惚れたのは
ちょうど十九の 春でした
いまさら離縁と 言うならば
もとの十九に しておくれ
2 もとの十九に するならば
庭の枯れ木を 見てごらん
枯れ木に花が 咲いたなら
十九にするのも やすけれど
3 見捨て心が あるならば
早くお知らせ 下さいね
歳も若く あるうちに
思い残すな 明日の花
4 一銭二銭の 葉書さえ
千里万里と 旅をする
同じコザ市に 住みながら
会えぬ我が身の 刹那さよ
5 主さん主さんと 呼んだとて
主さんにゃ立派な 方がある
いくら主さんと 呼んだとて
一生忘れぬ 片思い
6 奥山住まいの うぐいすが
梅の小枝で 昼寝して
春が来るよな 夢を見て
ホケキョホケキョと 泣いていた
7 私があなたを 想う数
山の木の数 星の数
三千世界の 人の数
千里浜辺の 砂の数
8 雲の切れ間に 満ちる月
あなたはなんて 無情なの
想い願いは 幾度なく
会えぬ月日は 幾日か
4番のコザ市の部分は、那覇市だったり
琉球だったりします。
19の春という曲名には以下のような逸話が
あるそうです。
津波恒徳(現琉球民謡保存会会長)は、
昭和35年ごろ与論を経由して奄美の島々を旅した。
そのとき「与論ラッパ節」と出会った。
沖縄のナークニーのように、次から次へと
即興で歌詞が涌き出てくるのに驚いた。
さっそく採集し、沖縄へ持ち帰った。
復帰の少し前頃、民謡クラブ『うみないび』で
津波恒徳は民謡ショーをしていた。
その頃一緒にショーをしていた本竹裕助が、
採集していた歌詞を2人で直し直し歌っていた。
「吉原小唄」とか「ジュリグヮー小唄」などと
言われていた歌をレコードにするにあたり、
そのようなタイトルではダメだということで
ディレクターをしていた、キャンパス・レコードの
ビセカツが、「十九の春」とタイトルにした。
デュエットしている津波洋子は、津波恒徳の娘である。
「十九の春」の最初のレコードがプレスされた
のは1972年の復帰の年でありましたが、しかし
それまでにいろいろなところでいろいろな
バージョンで歌われていたようです。
「吉原小唄」、「じゅりぐわー小唄」とかいわれ、
コザの繁華街などで口伝に歌われていました。
ジ ュ リ グ ヮ ー 小 唄
( 吉 原 小 唄 )
1 見棄てごころがあるならば
早くお知らせ願います
白菊、ボタンの花よりも
まだまだ立派な花がある
2 見棄てられてもわたくしは
あなたにゃ 未練を残しゃせぬ
年齢(とし)も若くあるうちは
みれん残すな明日(あちゃ)の花
3 ハッちゃん ハッちゃんと呼んだとて
ハッちゃんには立派な方がある
どうせ汚れたこの私
初恋ばかりが身にしみる
4 奥山育ちのウグイスが
梅の小枝で昼寝して
春がくるよな夢を見て
タカにけられて目がさめた
19の春の歌詞はこの吉原小唄に近いですね。
この歌の歌詞は娼婦の悲哀を歌った歌詞で、
こっちのほうが、歌詞の意味が分かり易いと思います。
「与論ラッパ節」は日露戦争の頃日本全国で流行った
ヴァイオリン演歌「ラッパ節」が原曲。しかしその
「ラッパ節」も「抜刀隊の唄」が原曲になっています。
「抜刀隊の唄」は明治政府がフランスから喚んだ、
シャルル・ルルーが作曲したものです。
ルルーは当事ヨーロッパで上演されていたオペラ
「カルメン」のなかの「騎兵隊の唄」のメロディーに
ヒントを得てというか真似て作曲しています。
つまり「十九の春」の遠い祖先はカルメンだったと
いうことになります。
奇しくも「十九の春」再ヒットの原因となった
映画「ナビーの恋」でもカルメンの一節が歌われていました。
与 論 小 唄
歌・五条雅子
1 枯葉みたいな 我がさだめ
何の楽しみ 無いものを
好きなあなたが あればこそ
いやなこの世も 好きとなる
2 あなたあなたと 焦がれても
あなたにや立派な 人がいる
今更私が 焦がれても
磯の浜辺で 泣くばかり
3 一年待て待て 二年待て
三年待つのは よいけれど
庭の草木を 見てごらん
時節変われば 色変わる
4 磯の浜辺の 波静か
二人手に手を 取りかわす
死んだらあなたの 妻ですと
女心の 悲しさよ
♪モシモシちょいと春子さん 私しゃあなたほうれん草
察して頂戴この胸を 僕のハートはわくわくよ
―ラッパ節 歌・嘉手苅林昌、比嘉春子―
♪わたしゃよっぽどあわてもの 蟇口拾ふて喜んで
家に帰ってよく見たら 馬車にひかれたひき蛙
―ラッパ節―
「十九の春」と同じメロディで「嘉義丸のうた」という
うたもあります。
元になった曲が同じだそうです。
そのうたは戦争中鹿児島から沖縄に向かう途中、
米国潜水艦の標的になり途中沈没した貨客船
『嘉義丸(かぎまる)』の事をうたった内容に
なっております。幼児から老人まで500名の乗客の
うち321人、乗員20名が命を落としたそうです。
しかし、戦時下のため軍部の圧力で報道が禁止と
され事件を知る人は殆ど居なかったといいます。
終戦後もアメリカ占領軍に配慮し、この事件に
関する報道がされることもなく、民間犠牲者の
氏名も不明になっています。
鍼灸師をしていた朝崎郁恵さん(島唄の唄い手)の
御父様が、この出来事を治療をしながら生存者から
聞き取り歌詞を作り、鎮魂歌「嘉義丸の唄」が生まれ、
島の人々に教え広めたが、戦時中は公には唄えず、
そのままになっていました。
その後田端義夫さんの十九の春を聞き朝崎さんが、
また唄うようになったそうです。
嘉 義 丸 の う た
1 散りゆく花はまた咲くに
ときと時節が来るならば
死に逝く人は帰り来ず
浮き世のうちが花なのよ
2 戦さ戦さの明け暮れに
戦火逃れてふるさとへ
帰りを急ぐ親子連れ
嘉義丸便りに船の旅
3 五月の二十日に大阪を
親子笑顔で船出して
鹿児島みなとに入るまでは
雨風もなく波もなく
4 鹿児島みなとをあとにして
二十六日十時半
大島岬も目について
宝の島の沖合で
5 ああ憎らしや憎らしや
敵の戦艦魚雷艇
打出す魚雷の一弾が
嘉義丸船尾に突き当たる
6 親は子を呼び子は親を
船内くまなく騒ぎ出す
救命胴衣を着る間なく
浸水深く沈みゆく
7 天の助けか神助け
ふたたび波間に浮き上がり
助けの木材手にふれて
親子しっかり抱きしめる
8 思う間もなくいとまなく
追いさらわれて海原へ
これが最後の見納めか
親子最後の見納めか
9 波間に響く声と声
共に励まし呼び合えど
助けの船の遅くして
消えゆく命のはかなさよ
10 親を恋しと泣く子らの
いとし子呼んで泣く親の
嘆きの声が聴こえたら
御霊よ天の星となれ
※嘉義丸
明治40年に大阪商船にて建造
建造当時は新潟から大連の航路であったが、
昭和8年から神戸から沖縄航路を就航しておりました。
昭和18年5月に神戸から沖縄に向かう途中の
奄美大島名瀬北東海上において右舷3番艙に被雷、
爆発の衝撃で船体後部が水没し、約5時間後に沈没
しました。
朝崎郁恵さんのHP
こちらから、「嘉義丸のうた」の試聴が出来ます。
嘉義丸については、神戸にある
とか、
アメリカ軍によって沈められた商船については
那覇市の波之上宮のそばにある
沖縄からの疎開者を乗せて鹿児島に
向かう途中に撃沈された対馬丸についての
に行くといいでしょう。
参考文献
琉歌幻視行 竹中労著 田畑書店
沖縄島歌読本 沖縄ナンデモ調査隊◎編 双葉社
沖縄うたの旅 青木誠著 ボーダーインク


おはようございます。
早速記事にして頂き、
ありがとうございます。
今回はちゃんとプリントアウト、
いたしました。最後の詞は、
以前NHKテレビで放送されていて、
私も色々と考えさせられた、
詩です。
☆クライテン2号さん
いえいえ、お役に立てれば光栄です。
参考文献の『琉歌幻視行』に、調べたい
内容が、出ているようなので買ってみようと
したところ、廃刊で、中古で探したら
2,200円が最低でも16,000円に
なっていました。
そのため、うん十年ぶりに図書館に行って
みました。
今の図書館ってすごいですね。
CDや、DVDまでありました。
対馬丸記念館や子桜の塔には何度か足を運びましたが、
大阪に住んだことがありながら、神戸のは知らなかったです。
☆桜坂マヤーさん
神戸のはあまり有名じゃないみたいです。
できたのも、最近みたいです。
本竹祐助さんの歌碑を見つけました。
そして、近くに「かっちん窯」もあります。
本竹祐助さんと何か関係が、あるのでしょうか。
☆kanarさん
初めましてです。
沖縄県内に歌碑って結構あるんですけど
たいてい、歌の内容に基づいた場所に
あります。
歌碑の写真を見せていただいたところ
阿麻和利についての歌のようですので
勝連にある『かっちん窯』のそばにあっても
おかしくないと思います。
ちなみに、『かっちん』とは『かつれん』の事だそうです。
歌詞の内容に、勝連城、中城城が出てくるので
この場所にあるような気がします。