沖縄が好きプラスのぱふさんの所で、
赤馬の像の記事があったので、赤馬のことについて
調べてみました。
赤馬のお話しは、こんな感じです。
大城師番は1700年川平仲筋村の若文子
(当時の八重山蔵元の役人ではかなり下の方で、
言うなれば、事務などを担当する新人です)
になり、32歳の1702年に、川平から宮良に帰る途中の
サキダ(崎枝?)牧中名蔵湾にさしかかった際に、
親馬も飼い主もいない仔馬を見つけます。
『誰が飼っている馬だろう。こんな立派な馬は、
この八重山にはいないはずだが。さあさあ、
自分の飼い主の所に帰りなさい。』と言っても、
この馬は師番の飼い馬のように、おとなしく
師番の後をついて来ました。
その馬に乗ってみると、その速いこと、
空を飛ぶような速さでした。
それから、いくら飼い主をさがしても現れないので
師番は、この馬を『赤馬』と名付けて自分の家で
飼うことにしました。たちまち、赤馬の話は
八重山中の評判になりました。
やがてその噂は首里の王にも届き、王から赤馬を
献上せよという命令がきたので、師番は赤馬を
連れてはるばる八重山から旅を続けて首里に
着きました。
早速、王が馬をご覧になると評判通りの立派な
馬なので、王は馬に乗ってみました。
しかし、かけ声をかけても、鞭(むち)で
たたいても馬は少しも走ろうとしませんでした。
そればかりか、馬は急に暴れ出して王を
振り落とそうとしました。
怒った王は、『こんな暴れ馬は、殺してしまえ。』と
家来達に命令しました。馬役人は驚いて師番を呼び、
『この馬は、いつもこんなに暴れる馬だとは思えない。
試しにお前が乗ってみなさい。』と言いました。
師番が馬に近づくと、今まで暴れていた赤馬は、
すぐにおとなしくなり、師番をのせると疾風の
ように走り出しました。これを見た王は
『この馬は、神様がお前に授けた馬のようだ。
だから、誰もこの馬をお前からとることはできないな。』
と言って、赤馬は師番に返されました。
そして、師番は赤馬を連れて、八重山に帰ることが
できました。
ところがこのことがあってから、赤馬の評判は
ますます高くなり、薩摩の殿様から馬を
差し出すように命令がきました。
師番は、仕方なく赤馬を薩摩の殿様へ
献上することにし、赤馬の乗る船を八重山の港で
見送りました。
その船が八重山の港から出ると急に嵐が起こり
船は港に吹き戻されました。
すると赤馬は手綱を切り、人々が止めることが
できないうちに、船から飛びおり、まっしぐらに
師番の家に駆け戻ると、師番に首を抱かれながら
死んでしまいました。
この話の琉球王が師番に赤馬を返すまでが、
赤馬節という八重山民謡となっております。
赤馬節は、お祝い事などで唄われることが
多い唄ですが、最後の薩摩の所まで歌詞が
あったら、きっと唄われなかったでしょうね。
この赤馬ですが、サラブレッドだったのでは?と言う説が
あります。その当時に日本にいた馬は、与那国馬みたいな
小柄な馬か、北海道にいるばんえい競馬に使われるような
道産子のような農耕馬がほとんどのはずです。
両方とも、走る速さは、人間が走るのと大差ないほどの
スピードしか出なく、サラブレッドのような60~70km
で走る馬を見たら、とてつもなく早く感じたでしょう。
しかも、サラブレッドは、17世紀から18世紀にかけて
アラブ種やイギリスのハンター種から品種改良が行われて
作られた品種であり、ちょうど、時期も一致します。
八重山沖は、中国等の航路になっており、台風の通り道にも
当たるため、仔馬を積んだ船が、座礁か難破し積み荷の仔馬が
石垣島まで泳いで逃げたとも、考えられなくはありません。
石垣島の宮良にある赤馬の象は、ちょっと小さいけどw
実物大じゃないんでしょうね。


サラブレッド説はおおいに信憑性がありますね。
銅像の大きさも仔馬ならあの大きさでもいいのではないですか。
☆にしやんさん
そうか~育った後ではなく、出会った頃の赤馬って
事もありますね。
の子孫にあたる者です
赤馬で検索したら こちらに辿り着きました
御紹介下さってありがとうございます
(^O^)/石垣島をよろしくね♪
☆大城師番の子孫にあたる者さん
ようこそいらっしゃいました。
これからも、沖縄の歴史等(特に琉球時代)に
興味があるので、思いついたとき
紹介していきたいと思います。