え~と、沖縄タイムスからの記事です。
池(湯船)に浸かる習慣がないと言われる沖縄県ですが
銭湯は3軒ほど有って、旭湯(那覇市樋川)と
日の出湯(那覇市泉崎)と中乃湯(なかのゆ)
(沖縄市安慶田)だそうです。
しかし、その内の旭湯が今年の夏で道路拡張の為、立ち退きを
迫られ、やむなく廃業するそうです。
糸満にも、有ったはずですが(たしか『ときわ湯』)
去年の1月13日の琉球新報の記事には、そこが載っていて
廃業の危機ってなっていたんで結局廃業しちゃったのかな。
その記事内に、県内の銭湯の件数は、6軒と出ているのに
沖縄タイムズの記事には、県内には3軒となってるから、
調査ミスが無ければ、1年で3軒も廃業したって事かな。
来年には、もしかしたら無くなってしまうかもしれないので
今の内に、入らないとはしても写真には収めておこうかなと
思います。
沖縄の歴史の最近のブログ記事
美栄橋案内板の旅も最終回です。
最終回は、ティーラガー(ティーダガーとも)跡
です。
ティーラガーとは、
天女にまつわる伝説がのこる湧泉跡で日泉、
天日井、照屋川などと表記される。
昔、天女が手を洗うところを見た徳千代という
者が、そこを掘ってみると泉が湧き出たという。
また太陽が、この地に落ちるのを見て
泉を見つけ出した。とも言われている。
とのことです。
ここも、見つけにくいです。
あっちのすーじ小、こっちのすーじ小って
入ってみたけど見つからず、やっと見つけたのは
よそのマンションの裏手にある駐車場のさらに
奥でした。
手前の丸いのが井戸部分ですが、ふたがされて
いたので、今でも水が出るのか判りませんでした。
すみません。
またお墓です。
ここに行くのには非常に判りづらいです。
よその駐車場の奥にあって看板もありません。
かろうじて案内板にあった写真を見てここかな
って判った次第です。
さて、張献功(ちょうけんこう)とは
?~1638(?~尚豊18)
沖縄に帰化した朝鮮陶工。和名は仲地麗伸。
文禄・慶長の役(1592、97年)で朝鮮
から連れ帰った陶工の一人で、薩摩に願い出て
招き入れる。那覇の湧田村に住み陶芸に励んだ。
文禄・慶長の役って、言うと何だか
よくわかりませんが、豊臣秀吉の
朝鮮出兵のことです。
前回の、渡嘉敷三良さんは、中国の人ですが
この方は、朝鮮の人です。
壺屋焼の礎を築いた人らしいです。
琉球舞踊の女踊りに『瓦屋節』と言うのがあり
名月をめでた歌詞でまとまった女踊りなの
ですが、全体は3曲構成で、第1曲は
『なからた節』、第2曲は『瓦屋節』、
第3曲は『しやうんがない節』と
なっております。
この内の『瓦屋節』の主人公の
夫だそうです。
瓦屋節の歌詞は以下の通り
できやよ押し連れて眺めやり遊ば
今日や名に立ちゆる十五夜だいもの(なからた節)
訳)さあ連れ立って眺めて遊びましょう。
今日は名に立つ十五夜ですから。
押す風も今日や心あてさらめ
雲晴れて照らす月の清らさ(瓦屋節)
訳)そよ吹く風も今日は心あるもののように、
空も晴れ渡って照り輝く月がなんと
きれいなことか。
月も眺めたりできやよ立戻ら
里やわが宿に待ちゆらだいもの(しよんがない節)
訳)月も眺めたし、さあ、急いで帰りましょう。
愛しい人がわが家で待っているはずですから。
この、『瓦屋節』の本歌が以下のようで
瓦屋頂登て真南向かて見れば
島うらど見ゆる里や見らぬ
訳)瓦屋根に登って真南を向かって見ると
私の生まれた村こそ見えるが、愛しい
あの方は見ることができない
この、屋根に登ったのが、張献功の奥さん
だそうです。
何故こんな歌を残したかというと続きのような
話があります。
緑ヶ丘公園の外れにある渡嘉敷三良(とかしきさんらあ)の
墓です。
墓は、沖縄の亀甲墓のスタイル以前のもので、
琉球石灰岩をくりぬいて墓室を作られている
そうで、昔の技法を残すお墓として貴重な史跡
らしいです。
葬られている渡嘉敷三良とは
?~1604(尚寧16)/12/24没
中国から帰化した沖縄最初の瓦工で、
真玉橋村に窯を築いて瓦を焼いた。子孫も
瓦業に従事し、百浦添(首里城正殿)を
はじめ寺院などの建物の屋根を飾った。
この子孫とは、現代の照喜名家だそうです。
この当時の瓦は、現代のような赤瓦ではなく白い瓦だったそうで
今では、読谷の喜名番所に見ることが出来るそうです。
まだ行ったこと無いので、今度行ってみようw
今日は、潟原跡です。
潟原は、泊と対岸の那覇と間に広がっていた干潟の
こと。
1451年の長虹堤築造以降、安里川から流れ出る
土砂が河口に堆積し干潟が形成された。
1694年泉崎村の塩浜芝香が潟原で入浜式の塩田を
始めたのを契機に、製塩業者が増え、潟原の一部に
泊前島・泊兼久といった集落ができた。
潟原では製塩の他、古くから馬勝負(調馬)や砲術
訓練も行われ、明治期以降は小学校の連合運動会
など多彩な行事の催し場としても利用された。
現在、潟原跡の一角に『泊塩田之跡碑』が建立されて
いる。
美栄橋の観光案内にあった文言からのコピーです。
上にある『泊塩田之跡碑』は、市立前島小学校の前にある
この公園
の中にあります。
昔はこの辺は、塩田があったのですね。
今じゃ、ユニオンがあったり、まったく面影をとどめて
おりません。
『泊塩田之跡碑』はこんな感じです。
しかも隣には、『焚字炉(ふんじゅるー)』があります。
どうも中国明代の敬惜字紙の風習が、伝わったらしく字を
書いた紙を焼く小さな施設だそうです。英祖王・尚寧王の
墓である浦添ようどれにもあるそうです。
『泊塩田之跡碑』よりもこっちのほうが気になっちゃい
ました。
5月の時に見た、美栄橋駅にある観光案内板を
9月に行った時に廻ってみました。
元記事はこちら
まずは、十貫瀬の七つ墓です。
ここは、続きのような伝説がある場所です。
美栄橋駅からも一目瞭然で判る場所なのですが
いくら廻っても入り口が判りません。
どうも、よそ様のおうちの脇を通らないと
たどり着けないようで、近くまで行くのはあきらめました。
ただ、道からは近いのでカメラの性能を生かして
写真を撮ってみました。
ガジュマルの木に覆われているけど
お墓らしいものが見えますね。
名前の由来どおりに7つお墓が
あるらしいのですが、よくわかりませんでした。


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